写真は白洲次郎氏


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自己分析①

12月の講演の影響もあって、OB訪問を毎週のように受けている。またゼミ後輩との勉強会で学生らと語り合うことからも、ふと、自分のこれまでの経験を見つめなおすことがある。

就職活動で自己分析、自己分析と騒ぐ連中は多いが、こんなもん、日々、自分の行動とその背後にある想いを省みていれば、直前になって慌てる類のもんじゃない。

とは言え、就職活動の時ってのは、自分売り込みモードでの自己分析であり、言ってしまえば、「僕は○○な人間です」と言うために、都合の良い過去の経験だけをPickUpしていたことは否めない。

そんなわけで、今さら、学生と話しながら、帰りの電車の中で「今の自分のこういう部分は、あの時の経験がベースにあるなぁ」とか振り返っている。


独白的な内容となってしまうが、今後のため、備忘録として書き残しておきたい。


①高校:裸の王様への反抗
なぜかはわからないが、今でも僕の根底に「大したこと無い奴が、大したことある振りをして、高いところから偉そうに吼えていることを、極端に嫌悪する」と言った価値観がある。反権威主義と言ってしまえば、話はシンプルだが、然るべき権威への尊敬はあるのだから、要するに裸の王様嫌いなのである。


そして、高校時代と言うのは、僕の目からは教師の大半が「裸の王様」であった。

いつも、「何でこの人達は、こんなに偉そうなのだろう?そんなに深く人生を理解しているのだろうか?その割には、随分と言動が曖昧じゃないか?」と悩むように考えていた。

思春期の反抗期の影響もあるし、こういうことを考えていたのは僕だけでは無いだろうが、この思想を行動まで貫いていたのが当事の僕である。


大学時代、社会人時代のお茶目(?)な人生のネタが注目されるが、実はそれらを凌駕する伝説が中学・高校時代にはいくつもある。

思い返すだけでも、「(”授業が終わるまで立ってるか?!”と怒られて)、後7分でチャイムなんで、立ってた方が楽だから、そうします」「能力が均等になるようなクラス分けなのに、どうして先生の受け持つクラスだけ、毎回、平均点が低いんですか?生徒をすぐ怒るけど、先生に問題があるんじゃないですか?」「先生の授業を聞かないで自分で勉強した方がテストの点が良かったので、今後、授業は聞きません」などと、数々の暴言(でも正論)を吐き続ける問題児であった。恐ろしい・・・。


その後、この学校を辞めてしまったが、「退学」と聞いた母が泣いた以外は、別にそんなに人生で困ってないので、「あの先生方の戯言をまったく聞かなくても問題は無かった」と自然と思っている次第で、むしろ「裸の王様に自分の人生を左右されてたまるか」と言う気持ちが根強くなった。

今でも不思議なのだが、教科書ガイド片手にマンネリ化したつまらない授業をする人達が、どうして生徒にがんばれとか、勉強しろとか、もっと偏差値の高い大学を受けろとか言えたのだろうか。彼らは、授業内容を高度にするようがんばってないし、最先端の学問の勉強もしてないし、何よりもリスクを取る生き方をしてなかったじゃないか。



②浪人:強制から自発
別に心酔していたわけじゃないが、ストンと腑に落ちたと言うか、予備校で某超カリスマ講師が最初の授業で言った言葉が、僕の人生の姿勢を作ったと言っても過言じゃない。

彼が黒板に記したのは「強制から自発」と言う言葉で、「親や先生に言われて訳も分からず大学に行くよりは、浪人して自分から大学に行こうと思って取り組む生き方に価値がある。せっかく浪人するなら、単なる大学合格じゃなくて”強制から自発”に変わることを目的にして欲しい。そっちの方が人生にとってはるかに有意義だ」みたいなことを言われた。

今、思い返しても、カッコ良い言葉だね。。。


この言葉にガツンと殴られた僕は、それ以来、強制的に何かをしたという経験はほとんど無いと思う。強制的に何かをやらされていると言う時点で、人間として未熟だと思うようになった。全ては、やらされているんじゃなくて、自分が選んで、したいからやっているんだと思えるようになった。

だからこそ、常に、何事にも受身にならぬよう自発的に取り組むし、自分の頭でそれで良いの
かを考え抜く、また納得が行かないなら当事者としてトコトン詰める姿勢が身についた。

その最初の実践が受験勉強と言えるだろう。親は何も言わずに好きにさせてくれたこともあるが、それこそ朝、何時に起きるか、予備校に今日は行くか、授業をサボるかどうか、全て自由なわけで、その環境で、どの授業を取って、どの参考書を使って、成績はどれぐらいで、そしてどこの大学を受けるか、全て自分で考えて進めてきた。成績が伸びなければ、受けている授業が悪いのか、使っている参考書が悪いのか、勉強時間を取れないことが悪いのか、表面的な要因は色々あるとしても、最終的にはそれらを決めた自分を責めるしか無い。

おそらく、この経験から、今も人生のベースともなっている原因自分説が、自身の中に築かれる一歩となった。大学に受かったことは結果に過ぎず、こういう人生へのスタンスを得たことは、本当に価値あるきっかけだったと思う。

高校を辞めた直後、志望校を口にした時、周囲の人々は「無謀だ」「現実を見なさい」と色々と言ってくれたが、きっとその言葉を鵜呑みにしていたら、僕はいつまでたっても何かを他人のせいにする生き方をしていたかもしれない。大人になっても、すぐに物事を他の物のせいにする人間はいるわけで、本当に可哀想だと思う。

大事なのは自分で考え、自分で決めて、自分で実行することなのだ。

Control your destiny, or someone else will.(by Jack Welch)なのである。


ちなみに、もう一つの経験として、大学受験に臨むに当たり、徹底的に予備校講師評価や大学の科目別の合格最低点などをリサーチした。そして、社会の選択科目で政経を選択すると、競合が極端に少なくなり、予備校である有名講師の授業に付いて行きさえすれば、かなり簡単に合格レベルに達することを発見した。これは、今でも、「何か楽する方法は無いか?」「どこか抜け道があるんじゃないか?」「競争しないポジションがあるはずだ?」と言うことを考えるクセをつけてくれた経験だった。

ただ、これは弊害もあって、さすがに一線級が切磋琢磨しているビジネスの世界だと抜け道なんてそうそうあるわけもなく愚直さ勝負になる。そこで、つい要領勝負を仕掛けがちな自分を省みている今日この頃でもある。


これについては、経営戦略のバーニーのリソース(ケイパビリティ)論、ポーターのポジショニング論に通ずる考察でもあるので、いつか書きたい。


③サークル:Street Wiseの自信
実は、大学に入った当初は、「また高校時代みたいに落ちこぼれるんじゃないか」と心配をしていた。入学した先は、性犯罪者を輩出してしまったが、一応は、私学の雄と呼ばれるところだったし。

しかし、そんなものは危惧に終わった。僕は自分が頭が良いと思ったことはあまり無いのだが(たまに、深夜などでテンションがハイな時に、モヤモヤと思い悩んでいたことが晴れると「こんなことを世界で思いつくのは、俺しかいないぞ!」と危険な錯覚に陥る・・・)、サークルや授業で感じたのは、先輩らも含めて「何で、みんな、こんな頭が悪いんだ?」と言うことだった。


大学はそもそも自由な場所であるし、中でも特に放任なカルチャーである我が都の西北では、逆に自分で学生生活を組み立てて行かなくてはいけない。その中で、きっとほとんどが出身高校では成績優秀者だったのだろうが、所詮は親・先生の言うことだけ聞いて思考停止していた連中なんだろう。自分の行動の設計となると、途端に何も出来なくなるひ弱な連中を多く目にした。


一方、こっちは「何で大学なんて行く必要があるんだ」から始まって、「留年か退学か」を決め、さらに勉強方法から計画、志望校選定まで、全て自分で組み立てた人間である。

まさにZガンダムでの名セリフ「お勉強だけできてバカな子って、いるんだよね」を悟った瞬間であった。

要するに、世間が人生決戦のように騒ぐ受験勉強と言うのは、「とても単純なインプットとアウトプットのパターン化が18~20歳ぐらいで出来る能力」に過ぎないことを痛感した。まあ、多少の思考の訓練にはなるし、こんな退屈なことを、楽しい青春時代の時間を削ってがんばることは、自己管理能力と言う意味でそこそこ立派だと思うけど、その程度のことじゃないか。

ところで、18~20歳の時の、こんな能力の選抜だけで、後はコースに乗っかれば大半が取れてしまう医師免許とか、それで良いんですかねぇ。


そんなわけで、ぶつかったり衝突をしながらも、サークルなどは完全に仕切る側に回り、「教科書の暗記は苦手でも、何かを実行して行く部分においては自分はそこそこ出来る奴なのかもしれない」と言うStreet Wiseの手ごたえを得た。


もちろん、たかだが学生の安全な世界でのオママゴトであり、ここで得たスキルなんてものは社会の荒波の前ではまったく無いに等しい。得たとすれば、この時の自分を原型として生きて行く自信であろう。

この自信こそが、その後、僕を前に前に積極的に押し出す原動力となっている。

周りは、大検から大学に受かったことに驚いてくれるが、自分の中では、こんなものは上にも書いた単純な事務処理能力をトレーニングした程度の認識しかなく、むしろサークルで得た手ごたえの方がはるかに大きい。

この手ごたえを自信に、良い意味で勘違いしながら、学生時代は走りきった。そう、あくまで学生時代までで、社会の中では、こんな天狗の鼻は容赦無くへし折られるわけだが。


アメリカの友人を見ていると、とにかく子供の頃から色々なスポーツや地域活動に取り組んでいるが、早くに何でも良いから成功体験をさせて、自信を持たせようとしているんじゃないかなと、今、思う。



で、まだ④ゼミ、⑤就職活動、⑥会社についても、考えたのだが、これらはまたいつか。


上手く言葉で説明できないが、今の自分に至る直線が見えてくるなぁ。
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by dskblog | 2006-02-06 01:27 | 想い